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短期集中連載・Hula Dubへの道

第1回・第2回・第3回第4回

第2回
『注目すべき人々との出会い1 』

ロックの時代の洗礼

70年代、英語の歌も完璧に歌えるアイドル的シンガーというユニークなポジションに居たサンディーが本格的なロックの世界に入っていくきっかけとなったのは、久保田麻琴が率いる“夕焼け楽団”との交流と、その知人である細野晴臣との出会いだった。

「70年代の半ばだったと思いますけれど、私がNHK・AMの音楽番組『若いこだま』などのパーソナリティをしていた時代に、ゲストでお呼びした久保田さん、細野さんとの交流がはじまりました。晴海のほうでジョン・セバスチャン*1なんかも出演した“Save the whale(鯨を救え)”コンサートというのがあって、そこで夕焼け楽団に参加し、細野さんのコーラスをやらせてもらったんです。」

70年代といえば、ネットを使って一通りのことがわかってしまう現在とはまったく違い情報や知識を得る手段は極端に限られていた。日本のミュージシャンたちは英米のミュージシャンの進んだスキルを得るためレコードを聴き込み、数少ない来日コンサートなどからその奥義を学ぼうと努力を重ねていた時代である。中でも細野や久保田は学究肌のところがあり、自分たちが夢中になっていた音楽をその構造にまで踏み込んで研究しており、その成果をサンディーにも教えてくれた。そんなふうにして音楽の楽しみと深みを教えてくれた存在だったようである。

サンディーは彼らをはじめ多くのアーティストと交流することでクリエイターへの道を本格的に歩み始めた。70年代の後半に事務所から独立して一人で活動を始めた当時は年の半分くらいを海外で過ごしていたという。理由は当時もっとも素晴らしいと感じた音楽を現地で体験するため。70年代というロックの激動期にあって音楽とそれにまつわる時代の動きに魅かれて最もホットな場所に渡航を続けたと言ってもいいかもしれない。

「70年代の後半はしょっちゅう海外に行っていました。あの頃のカリフォルニアあたりはヒッピー・ムーヴメントの良い部分を学んだ人達がいて、良いケミストリーというか楽しい雰囲気がありました。南米地域、中でもニューオリンズは特にお気に入りで、一時期はロニー・バロン*2のおじさんの家に一部屋用意してもらって長期滞在をしながら、おしゃれをしてアラン・トゥーサン*3のライヴに行ったりブラック・インディアンたちのパレードに参加してセカンド・ラインのグルーヴを体験したり……言ってみればあの頃が私の音楽的な青春でしたね(笑)。そしてあそこに住んでいるクレオールたちは本当に素敵な人が多かった。わたしもクレオールになりたい!って思うくらいでした」

ロニー・バロン氏宅にて
ロニー・バロン氏宅にて

今よりも海外が遠い存在であった70年代のこと、時間と手間と費用(為替レートでいうと1ドル=250円ほど)がかかる話だ。というと身銭を切って大変な苦労をして音楽の勉強をしていたように思えるかもしれない。だがサンディーから話を聞く限り修行のような堅苦しい感じはなく、夢とワクワク感が漂ってくる。頻繁にアメリカに出かけて行ったのは、お勉強のためではなくそこにある素晴らしい音楽と素敵な人たちに惹かれて、ということになるのだろう。音楽と文化の関係も現地で身をもって知るようなことが多かったという。

「あの辺の黒人の音楽って、ひと昔前に奴隷として連れてこられた人たちがインディアン・リザベーションに逃げ込んで住み着いてアフリカとニューオリンズが溶け合わさって出来上がっていったもの。私が思うに、アフリカのマントラ(呪文)とロックのケルトの要素やエイトビートが混ざることでブラック・インディアンのパレードで聴ける、一個一個のビートはシャッフルしていてもそれが4つ並ぶとステディなタイム感をキープしている独自のグルーヴを生んだ。想像ですけれど、そんなユニークで踊りだしたくなるようなビート・マジックを、細野さんが打ち込みというかテクノ的にやろうとしたのがYMOの始まりと関係あったんじゃないかと思います」

音楽との出会いは人との出会いから生まれる。この時期の体験からそんなことをサンディーは実感したと言う。

そして日本に帰ると、歌唱力と英語のスキルを買われて仕事が山積みだった。

「事務所を抜けてからはフリーで活動していました。それまでの実績や業界の人間的コネクションがあったことで、コーラス、ヴォーカルの仕事をいただいていました、ゴダイゴの英語版とかいっぱいやらせてもらったなあ。仕事は、当時のことだから電話を使って依頼を受けていたんです。海外に何ヶ月か行って帰国する前にインペグ屋さん、CM制作会社、音楽制作会社などに連絡先と帰国スケジュールを手紙で知らせておいて、日本に帰って来たら留守電をチェックすると“オーディションが何月何日にあります。それが通ったら本番はいつです”みたいなメッセージが入っているから、それをスケジュール調整してお仕事をさせていただいていました。*4それ以外のときは海外と日本を行き来して、マリア・マルダー*5や、ボニー・レイト*6なんかとも知り合ってロックの洗礼を受けたというのかな、もう音楽にどっぷりでした。忙しくて面白い時代でしたね」

YMOと『イーティン・プレジャー』

精力的にさまざまなミュージシャンとのセッションに参加し、シンガーとして多くのスタジオ仕事をこなしていたというサンディー。そしてついに、自分自身の表現を発表する時期が来た。

70年代後期、サンディーが知遇を得ていた細野晴臣はアルファ・レコードと契約していた。そして78年、その前から製作していた『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』と続いた “トロピカル三部作”を『はらいそ』で締めくくると、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成する。エキゾチックな音楽をテクノロジーで料理したようなYMOは最初こそマニアックに受け取られて広くアピールすることはなかったものの、翌1979年に『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発表するとそこから「テクノポリス」「ライディーン」といった怪物的なヒット・シングルが生まれ、1980年、日本にテクノ・ポップ・ブームが巻き起こる。

その動きの中に、当然サンディーも居た。ベスト・セラー・アルバムとなった『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に入っている「アブソリュート・エゴ・ダンス」という細野の曲で印象的な歌声による沖縄民謡調のコーラスを披露し、「Voice」(細野の言によれば「おはやし」)とクレジットされているのが彼女だ。また同じくYMOの『増殖 XOO MULTIPLIES』収録の「ナイス・エイジ」も彼女の見事な英語のコーラスをフィーチャーした作品である。そして1980年7月、本格的にロックの道に入ってからのサンディー自身の初ソロ・アルバム『イーティン・プレジャー』が細野のプロデュースによって発表された*7。

「最初は細野さんがソロで作ってきたエキゾチック路線を私のアルバムで引き継いでやる予定だったんですけれど、79年の年末にYMOのワールド・ツアーから戻ってきたら、やっぱり別のものにしようということになって。細野さんも1980年ごろはテクノ、ニュー・ウェイヴというのを強く意識していたからエキゾチックものはいったん封印することにしたのかな、と。そういえば当時の細野さんは『メタ・ポップ』という言葉をよく使っていて、同じころだったと思いますけど“サンディーは普通の人と違うハリウッド・スターみたいなライフ・スタイルにしたら? もうじき本当にそうなるから”なんて冗談のように言ってみたり(笑)。あの時代というのは特別な空気があって、細野さん周辺のテンションは高かったですよ。それで結局レコーディングしていた前の曲はお蔵入りになって、一から作り直しました」

細野は「サンディーはメタ人間」とも言っていたらしいが、“メタ・ポップ”というのはYMOの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』の帯に書かれた惹句にも使われている言葉で、批評的な視点からさまざまなタイプの音楽を再構成していくようなYMOの音楽性を端的に言い表している。ともあれ、YMOが作り出したマニアックでディープな音楽が日本で異様なまでの盛り上がりを見せる中、その中心にいた細野の周りには多くの才能が集まってくる特殊な磁場が形成され、サンディーの活動もその新たな時代の動きと無関係ではいられなかった。

SOLID STATE SURVIVOR / YELLOW MAGIC ORCHESTRA
SOLID STATE SURVIVOR / YELLOW MAGIC ORCHESTRA

Eating Pleasure (original jacket)
Eating Pleasure (original jacket)

Eating Pleasure (Revised jacket)
Eating Pleasure (Revised jacket)

『イーティン・プレジャー』はテクノ・ポップ風ではあるが、同時にとてもニュー・ウェイヴを感じさせるサウンドである。“美人シンガーのテクノ・ポップ・アルバム”というような俗っぽいオーラはなく(ただし、ジャケット写真は大変セクシー)、後のワールド・ミュージックを予感させる雑食性、実験的サウンドやメタリックな音に音響処理されたヴォーカルなど、あえて一般受けを避けたかのような実験的・意欲的な音作りが目立つ。

だがその中で一曲、とてもスウィートでポップな曲が入っている。

高橋幸宏がサンディーに書き下ろした「Drip Dry Eyes」というその曲は、当時イギリスのロック界に大きな影響を与えていたダブの手法を細野が全面的に取り入れた音で、日本のロックでここまで大胆にダブをやっていた例はまだ少なかった。

ところでこの時期にダブの手法がイギリスで大流行したのには理由があった。79年にジャネット・ケイというレゲエ・シンガーの「Silly Games」というシングルが大ヒットを飛ばしており、その12インチ・ヴァージョンで大胆にダブ・サウンドが使われていたからである。そして、その「Silly Games」を作曲し、ダブの手法でプロデュースしたのがデニス・ボヴェル。今回のサンディーの新作『Hula Dub』の共同プロデューサーである。サンディーはその「Silly Games」を細野からリアルタイムに聴かせてもらったという。

細野と出会ったことがデニスの音楽との出会いへと発展していった。今にしてみれば、1980年から2018年へと連なる“注目すべき人々との出会い”がもたらすものがすでに用意されていたのである。

そしてサンディーはじきに実際にデニスと対面することになる。

(以下、次回へ続く)

細野と『イーティン・プレジャー』制作のための打ち合わせ後の1枚
細野と『イーティン・プレジャー』制作のための打ち合わせ後の1枚

マリア・マルダーに影響されていたころのサンディー(1976)
マリア・マルダーに影響されていたころのサンディー(1976)

  1. ジョン・セバスチャン(1944-) 米国のミュージシャン。60年代に活躍したフォーキーなスタイルのアメリカを代表するロック・グループ、ラヴィン・スプーンフルのリーダーであり、ヴォーカリスト、ギター、ハーモニカ奏者。ジョンの手によるラヴィンの有名なヒット曲には「魔法を信じるかい?」(1965年のデビュー・シングル)、ソロでは「ウェルカム・バック」などが有名である。ロック史上に残る1969年のウッド・ストック・フェスティヴァル(Woodstock Music and Art Festival)にも飛び入り(観客として観にいったが主催側に頼まれて)出演している。
  2. ロニー・バロン(1943-1997) ニューオリンズ出身のミュージシャン。キャンド・ヒートなどに参加。78年に細野晴臣の共同プロデュースによって発表された彼のアルバム『ザ・スマイル・オブ・ライフ』にはサンディーも参加している。
  3. アラン・トゥーサン(1938-2015)ネヴィル・ブラザーズ、ドクター・ジョン、ジェイムズ・ブッカー、プロフェッサー・ロングヘアなどと共にニューオリンズを代表するミュージシャンの一人。ピアニスト、ソング・ライター、名プロデューサー、コンポーザー、アレンジャーとしてロバート・パーマーやザ・バンドなど多くのミュージシャンの作品を手がけ、欧米の音楽シーンに多大な影響を残した。
  4. 70年代後半にサンディーが歌った曲の中でも、アガサ・クリスティー原作の映画『ナイル殺人事件』の主題歌「ミステリー・ナイル」(1978)、TVアニメ作品『ルパン三世(セカンド・シリーズ)』のエンディングテーマ「Love Squall(ラヴ・スコール)」(1979)などは特に有名。
  5. マリア・マルダー(1943-) 米国のブルース、フォーク・ロック系シンガー。60年代から活動し現在も現役。「真夜中のオアシス」(1973)が米英で大ヒットしたことで知られる。
  6. ボニー・レイト(1949-) アメリカのブルース系シンガー・ソングライター、ギタリスト。1989年のアルバム『Nick of Time』はグラミー賞のアルバム・オブ・ジ・イヤーを含む3部門を獲得する歴史的な作品となった。反戦、環境問題などの社会的なテーマに70年から積極的に取り組む活動家としても知られている。
  7. 『イーティン・プレジャー』 サンディー自身の記憶によれば英国でも発表されたとのことなので、目下調査中。ちなみに、アルファ・レコード出身のエンジニア、飯尾芳史にとっても初めて自分の名前がクレジットされた思い出深い作品とのこと。

(文中敬称略)

(取材・文/田山三樹)

田山三樹 (ライター/編集)

編著に『NICE AGE YMOとその時代 1978-1984』(シンコーミュージック・エンターテイメント)、編集担当コミック単行本に『マリアナ伝説』(ゆうきまさみ・田丸浩史/共作)『ディア・ダイアリー』(多田由美)など。サンディーが80年代中頃まで在籍したアルファ・レコードについての読み物『アルファの宴』を『レコード・コレクターズ』誌で連載していた。


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