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短期集中連載・Hula Dubへの道

第1回第2回・第3回・第4回

第3回
『注目すべき人々との出会い2 』

未来への出会い

(本連載の趣旨から、この項目についてはサンセッツ に関する記述もサンディーの歩みを中心としたものになることを最初にお断りしておきます。)

デニスとの実際の出会いの日付ははっきりしないが、初対面のとき、すでにデニスが「Drip Dry Eyes」を聴いていたというから、1980年の後半あたりだったようだ。場所はロンドンでデニスが行なった自らのレゲエ・バンド、マトゥンビのライヴの楽屋だったという。

そして、そのころのサンディーはソロ・アルバム発表後、夕焼け楽団がリニューアルした新たなグループ結成の動きの中に居た。サンセッツの誕生である。5人組の彼らはアルファ・レコードと契約。81年8月に細野晴臣のプロデュースによるファースト・アルバム『ヒート・スケール』が発表され、ソロ・アーティストからグループのフロントに立つ紅一点のヴォーカリストへとサンディーのスタンスは大きく変化した。グループ名は最初“サンセッツ”という単体の名前だったが、『ヒート・スケール』発表後に“サンディー&ザ・サンセッツ”と改名している。

「ソロの『イーティン・プレジャー』は発表当時にイギリスの音楽誌でも大きく取り上げられて話題になったんです。そのせいか、その後に私がサンセッツの一員として活動を始めたら、イギリスでは“あの『イーティン・プレジャー』のサンディーの居るバンド”ということでサンセッツのことを“サンディー&ザ・サンセッツ”と呼ばれたのがきっかけで定着しちゃったんだと思います」

ジャケットを確認してみると日本で最初に『ヒート・スケール』が発売されたとき、アーティスト名は「SUNSETZ」となっているが、後に発売された海外盤などではタイトルとアーティスト名のレイアウトが変更され「SANDII AND THE SUNSETZ」となっているのがサンディーの言葉を裏付けている。

国内盤ジャケット
国内盤ジャケット

海外盤ジャケット
海外盤ジャケット

こうした動きが進行していく中でデニスとは自然な友人づきあいとなってお互いのコンサートを観に行き、時にステージに上がるなど親密な交流を続けることになるが、本格的なレコーディングをするまでには至らなかった。

サンディーにはサンセッツがあり、デニスにはレゲエ・ワールドの中に自分のベースがある。そういった立場の違いもあり、当時はアーティストとしての創作の方向性やキャリア的なタイミングがクロスして一緒に音楽を作るまでは至らなかった。結局、この出会いの具体的な成果は未来へと持ち越されることになる。

サンセッツとソロ、世界の旅

サンセッツがデビューした1981年。このちょっと前くらいから、海外におけるレコード契約を結ぶ日本のバンドが複数出てきた。それ以前は70年代中頃のサディスティック・ミカ・バンドなど数えるほどしかなかった。この動きの先陣を切ったのはYMOで、所属するアルファ・レコードの首脳陣がアメリカのレコード会社A&Mを口説き落として欧米を中心とするワールド・ワイドな発売契約を結ぶとともに79年と80年に2回のワールド・ツアーを行なっている。同じアルファ・レコードで鮎川誠が率いるシーナ&ザ・ロケッツや細野と高橋幸宏が作った¥ENレーベルのアーティストたちと同様にサンディー&ザ・サンセッツもA&M、CBS、SIREといった全世界的発売網を持つメジャーなレコード会社から作品が供給されていく。国内のビクターからメジャー・デビューし、海外ではサンセッツと比較されることが多かったというプラスチックスが英国のアイランド・レコードから『Welcome Back』で世界デビューをしたのもこのころである。サンディーと親交がある土屋昌巳をリーダーとして「すみれSeptember Love」のヒットを持つバンド、一風堂も出来たばかりのエピック・ソニーでデビューした後にCBS系の供給ルートを通じて欧米で土屋のソロを含む5枚のアルバムが発売されている。こうした日本のロック系ミュージシャンの海外進出の動きは80年代中頃までは続いていた。

そして、サンディーがフロントに立つサンセッツはアルファ・レコードで3枚のアルバムを発表した後に86年からは東芝EMIに移籍するが、『Banzai Baby(ララララ・ラブ)』はヴァージン・レコードを通じて海外で発売され、海外で何年にも渡ってレコードが発売されライヴも行った数少ない日本のバンドとなった。

この時期80年初頭のサンディーはサンセッツでの活動以外にも国内で多くのアーティストのアルバムにゲスト参加している。

主なものだけでも、前回も挙げたYMOの「Nice Age」(『増殖 Multiplies』収録)、高橋幸宏の『音楽殺人』、一風堂『ラジオ・ファンタジー』など(いずれも海外でも発売された)があり、特有のスタイルを持ち声質の記名性が高いヴォーカルはすぐにサンディーのものとわかる。

一風堂『RADIO FANTASY』(イギリス盤)
一風堂『RADIO FANTASY』(イギリス盤)

高橋幸宏『MURDERED BY THE MUSIC(音楽殺人)』(イギリス盤)
高橋幸宏『MURDERED BY THE MUSIC(音楽殺人)』(イギリス盤)

※これらのアルバムは日本とは異なるジャケット・デザインで海外でも発売された。

「それ以前からセッション的なお仕事のときは、スタジオで一回歌うとOKになることがたまたま多かったせいか“テイクワン・シンガー”と呼ばれちゃったりしていましたね(笑)。CM制作やバンドなんかでデモ・テープを作る時も、私が歌うとオーディションが通りやすくなるとかって言われて(笑)その段階から参加することもありました。それでオーディションが通ったらそのまま本番も参加、みたいなパターンです。ともかくあの頃はスタジオの仕事をバリバリやらせてもらっていました。若かったから何も考えないで『一度曲を聴かせてください』って言って、聴いたらすぐに本番、みたいな。アドリブで思いついたフレーズも入れてバンバンッとやっていましたね。」

自分のバンドもやりながらのセッション仕事だから、大変な量の仕事をこなしていたようだが、それにはある部分、サンセッツの活動をソロ仕事でサポートするという理由もあったようだ。

「あの頃はそんな風にしてシンガーとして毎日のようにどこかへ行って歌っていましたから、それで食いつないでいたようなものでしょうか(笑)。仕事の仕方を思い返してみると、当時よりも今のほうが一人のシンガーとしての自意識もスタイルもしっかりあると思う。だから若いころは“自分の声ってなんて特徴がないんだろう”なんて思っていたんですけれど、昔の、それこそ忘れていたようなセッション仕事をいまになって聴いても“あ、私だ”とすぐわかる。感覚に任せてやっていたつもりでも、なんとはなしに自分なりの歌のスタイルもあるんですね。私的にそれを日本語で“歌心”というのかな、と。あと、けっこう自分のキーの限界に近いところで張り詰めて歌うと独特の歌いまわしになって、それが私の個性だと言う人もいました。YMOの『Nice Age』でのコーラスなんかはその典型ですね。幸宏さんやマーボー(土屋昌巳)たちのアルバムに参加したのは、細野さんのプロデュースでいったんワールドワイドな香りを放ってばーんと世に出たから、同じ志を持った人たちが声をかけやすくなっていたのかもしれません。改めて感謝です。」

サンセッツ時代は海外活動が多かったこともあり、サンディーはニュー・ウェイヴ全盛のロンドンのロック・シーンを間近に観ている。

「ロンドンにはよく行っていましたから、あの当時の勢いのあるアーティストはだいたい生で観ています。80年のダンス・ミュージックとしてスカが大流行していて、ツー・トーンのスペシャルズやセレクター、ザ・ビート*1なんかをライヴで聴くと、にかくアドレナリンがバーっと出て体が動いちゃう。あの頃のロンドンの音楽が移り変わっていくスピード感というのは特別なものがあって、それをリアルに体験したのもまた音楽的青春の思い出ですね(笑)。自分の感覚だと、厳しい戦いの姿勢を打ち出したパンクに比べると、ニュー・ウェイヴは音楽がもたらしてくれる喜びを素直に感じよう、楽しくやって行こう、という前向きな感じがより強くて私は大好きでした」

サンセッツがニュー・ウェイヴ系だったこともあり、旬のアーティスト達との交流も多かった。スージー&ザ・バンシーズ*2のスージー・スーやバッジーなどはとても仲が良く、来日したスージーと一緒にとあるバーに行ってスージーが男に間違われたり(註:彼女は女性にしては大柄である)、バッジーとの2ショット写真がジャパンの伝記に掲載されている。バッジーは今回『HULA DUB』を一緒に作ったデニスがプロデュースしたザ・スリッツのデビュー・アルバムのドラマーでもある。そして、実際の交流が作品として定着したのが、当時日本で大変人気があったイギリスのバンド、ジャパンのディヴィッド・シルヴィアン。サンセッツの82年のアルバム『イミグランツ』にはディヴィッドがゲスト参加して何曲か歌詞を提供、バック・コーラスも務めている。

そして、この出会いはジャパンとの合同ツアーというさらなる副産物を生んだ。

「82年の夏ごろかな、ジャパンのディヴィッド・シルヴィアンが、当時付き合っていたユカちゃんと一緒に原宿でやったサンセッツのライヴに来てくれて『秋のスケジュール空いてる?』って。詳しく聞いたら『もう決めたことだから話すけど』って言って、(ジャパンの)解散とラスト・ツアーへのゲスト参加をオファーされたんです」

78年にレコード・デビューをしたイギリスのグループ、ジャパンは“ロキシー・ミュージック*3の息子たち”と評されるヨーロッパ的な影のあるニュー・ウェイヴ系バンドで、81年のアルバム『錻力の太鼓(TIN DRUM)』が高い評価を受け、当時イギリスで流行していたニューロマンティクスの旗手としてもてはやされたが、本人たちはそれに背を向けるかのようにバンドのラスト・ツアーを準備していた。

サンセッツは、彼らジャパンがイギリスを中心にヨーロッパ各地、バンコク、香港、日本を巡るワールド・ツアーのサポート、というよりゲスト格での同行を提案されたのである。

82年の秋にスタートしたツアーは同年末、日本の名古屋公演を最後に成功裡に終わり、サンセッツ はジャパンとともにヨーロッパ、そして再び日本のファンにも存在感をアピールすることができた。

その後もサンセッツとしての活動は続き、オーストラリアで「Sticky Music」がナショナル・ヒットして注目を集め、デヴィッド・ボウイとの親交も生まれ、とワールド・ワイドな足跡を残した。だが、そんな彼らも80年代の後半にバンド活動を休止することになる。

1983年シリアス・ムーンライト・ツアー中。東京・原宿のピテカントロプス・エレクトスにてデヴィッド・ボウイと
1983年シリアス・ムーンライト・ツアー中。東京・原宿のピテカントロプス・エレクトスにてデヴィッド・ボウイと

そして、ソロとなったサンディーは世界の音楽を自分の声を通じて歌い継ぐという、『イーティン・プレジャー』制作時に細野から言われたことを実行するソロ活動を続け、90年代の前半に東芝EMIで3枚のアルバムを制作*4した後にフラという自分の原点に回帰した。

そして2018年、またポップスの世界にビッグ・リターンしたのである。

「フラがいつも自分の活動の中にあるのは変わりないけれど、やっぱり、今の私のシンガーとしての姿勢の出発点を示してくださったのは細野さんなんですね。細野さんは、センス、かっこいいエゴの持ち方、宇宙からダウンロードしているんじゃないかと思うような天才的な音楽性、私にとっては日本で最高に素晴らしと思うミュージシャンです。そして久保田さんにお世話になったと今思う。私は正直言って、長いキャリアの割には芸能界には直接さらされずにやってきたと思うんです。それは多分、サンセッツ時代にビジネスのコアな部分を久保田さんが引き受けてくれていたから。そして、もしあの頃に純粋に歌を歌うこと以外のことをいっぱい考えなければならないとしたら、それは私にとって辛いことだから、それがわかって守ってくれていたのかなと」

「だから出会いはみんな糧になっているんですよ」と語るサンディーはいま、これまで求め、教えてもらい、実際に触れてきた音楽の中から自分の進むべき音楽の道を選んだ。

フラは自分の中心。そしてそのほかにもまだまだ歌ってみたい世界の音楽がある、今はそれを思い切ってやってみよう。そういう選択である。

そんな思いが募っていたころ、それまでは共演の機会が訪れても実行段階に入るとスケジュールが合わずに流れてしまう、そんな関係だったデニスとの縁がまた視界に入ってきた。出会いから35年経った2016年になってその機が訪れたのか、サンディーは日本のフェスに参加したデニスにコンタクトをとる。

(以下、次回)

  1. ツー・トーンのスペシャルズやセレクター、ザ・ビート
    1979年からイギリスを中心に熱狂的なブームを生み出したツー・トーン(TWO TONE)とはジャマイカのスカとパンク・ロックの融合的な音楽スタイルで、レゲエの後打ちのリズムとパンク的なスピード感が特徴。ザ・スペシャルズ、マッドネスらのメジャー・デビューとともに瞬く間に広まり、ポール・マッカートニーがザ・スペシャルズを絶賛したり、80年にスペシャルズが来日公演を行った際には日本でも独特の白黒のツー・トーン・ファッションに身を包んだ若者が急増した。TWO TONEはスペシャルズが創設したスカを中心としたレコード会社の名前でもあり、彼ら以外にも初期のマッドネスや、ザ・セレクターなど同傾向のバンドや、レゲエのレジェンド系ミュージシャン、リコ・ロドリゲスなどが所属した。
  2. スージー&ザ・バンシーズ
    70年代中期、パンク革命の前夜にスージー・スーとスティーヴ・セヴリンを中心に結成されたパンク・バンド。スージーは1976年にセックス・ピストルズと共に親衛隊としてテレビ出演中に司会者のビル・グランディに口説かれた際に「エロオヤジ!」と罵ったことで有名になった。78年のレコード・デビュー時は4人編成だったが、何回かのメンバー・チェンジをしている。もちろんスージーだけは変わらずに在籍。パンク・バンドが出発点ではあるが独自のポジションを築き、スージーの情念的なヴォーカルと重い陰りを持った音楽スタイルから“ゴシック・パンク”、“ゴス・ロック”と呼ばれるようになり、スージーはそのジャンルを代表するカリスマ的な存在となる。70年代後期にデビューしたパンク・バンドの多くが数年で解散していく中、バンシーズは20年以上にわたって活動を維持していた。正式な解散表明はないが、2002年を最後に現在はまた休止期間になっているようだ。
  3. ロキシー・ミュージック
    1970年にイギリスで結成された。リーダーのブライン・フェリーは美術学校出身で、現代アートとけばけばしいロックを融合させた新しい芸術スタイルをこのバンドで実現させ、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン(Tレックス)らとともに“グラム・ロック”(当時の派手なヴィジュアルのバンドの俗称)というジャンルによって70年代前半を盛り上げた。初期のメンバーには後にU2のプロデュースや環境音楽(アンビエント・ミュージック)というジャンルを生み出したことで有名になるブライアン・イーノが居る。70年代前半に5枚のオリジナル・アルバムを制作し、「恋はドラッグ」が米国でもディスコを中心にヒットしたが、75年にいったん活動を休止。79年に復活して3枚のアルバムを制作、82年にワールド・ミュージック的な要素をうまく取り入れた『アヴァロン』が世界的なヒット・アルバムとなり、そのワールド・ツアーを最後に解散。以降はリユニオン的なツアーやロック・フェスでの単発出演などがあるが新作は作られていない。ブライアン・フェリーはソロ・アーティストとしてのキャリアの方がロキシーを大きく上回り、現在までに15枚のアルバムを発表している。ロキシー自体は2011年ごろに自然消滅した、と見られている。
  4. 東芝EMIで3枚のアルバムを制作
    この時代のアルバムは海外のEMI配給などで、ギリシャやインドネシアといった意外な国々で発売されているようだ。筆者が現物未確認につき、探求しておきたい。

オランダのロック・フェスに出演した、84~85年あたりのヨーロッパツアー中の写真

(文中敬称略)

(取材・文/田山三樹)

田山三樹 (ライター/編集)

編著に『NICE AGE YMOとその時代 1978-1984』(シンコーミュージック・エンターテイメント)、編集担当コミック単行本に『マリアナ伝説』(ゆうきまさみ・田丸浩史/共作)『ディア・ダイアリー』(多田由美)など。サンディーが80年代中頃まで在籍したアルファ・レコードについての読み物『アルファの宴』を『レコード・コレクターズ』誌で連載していた。


短期集中連載・Hula Dubへの道